ダッソー・システムズでは、社員に対して「もし◯◯ができたならば、世の中をこのように変えられるのではー」という4つの価値基準(コア・バリュー)を掲げています。お客様の課題解決であれ社会に関わる取り組みであれ、これらの価値基準をもとに自らに問いかけ、チームを作り、アイデアを形にしていきます。この「IF WE日記」シリーズでは、パラアスリートとして車いす競技で活躍し、起業家としても活動する当社の社員、官野一彦(かんの・かずひこ)が、どのようにこの4つの価値基準を体現しているか、ブログ形式でお伝えしていきます。
はじめに、私はスポーツを始めた当初は自分がアスリートだと胸を張って言える状態では到底無かった、と言う必要があります。2006年に競技を始めて、わずか1年で日本代表に呼ばれ、調子に乗っていた自分がいたことをはっきり覚えています。当時はタバコも吸っており、お酒も飲んでおり、トレーニング量も少なく、恥ずかしながらアスリートとして認められる状態ではありませんでした。たくさんの方を傷付け、謙虚ではなく、人の話を聞かないという自分がいました。そしてとうとう然るべき時が来ました。2010年に日本代表を外されたのです。年下の選手や、自分よりキャリアの少ない選手に抜かされて外されたのです。当たり前です。そんなに甘い世界ではありません。日本代表になりたくて、みんな必死にトレーニングをしています。そんな中私はタバコを吸って、酒を飲み、トレーニングを大してしていない状態だったのです。
スポーツでも仕事でも、自分より年下の人やキャリアの浅い人に抜かれていくことに、恥ずかしさや悔しさを感じることはありませんか。もし自分が中学3年生で、中学1年生に50m走に負けたら恥ずかしくありませんか。私はまさにその状態でした。不貞腐れて、練習態度も悪く、たくさんの人に迷惑をかけたと思います。
しかし、そんな私にも周りのスタッフや仲間は、いつも通りに接してくれました。「頑張れ」とは言われなかったけど、「もっとやれるだろう。お前はこんなもんじゃないだろ」と声をかけてくれているような気がしました。それを感じたとき、今自分がとっている態度や行動が恥ずかしくなりました。そのときに、「自分ひとりでプレーしているんじゃない。たくさんの人が支えてくれている」と気が付き、家族、仲間、スタッフ、沢山の人達に「感謝」の気持ちを持つきっかけになりました。気付きを得られときに、素直さや、謙虚さ。何より自分の現状を認めてどうすれば現状を打破できるのか、といったことをはじめて考えられるようになりました。
2006年に競技を始めた当時、障害者スポーツを取り巻く環境は決して恵まれている環境ではありませんでした。現在でも良い環境であるとは言い難いですが、当時と比べるとて格段に理解・認知され、障害者スポーツの環境は圧倒的に良くなったと感じています。これは、2020年東京オリンピックパラリンピックの開催決定を機に、非常に前進したと思われます。コロナ渦の中で東京オリンピックパラリンピックをどのように迎えられるかわかりませんが、オリンピックパラリンピックが終わった後の障害者スポーツへの関心や環境が薄れていく可能性を恐れています。東京オリンピックパラリンピックが終わっても、次の2024年のパリ、2028年のロサンゼルスと私達障害者アスリートの「夢の舞台」は続いていきます。私がロンドンパラリンピック、リオデジャネイロパラリンピックに参加して、今まで感じたことない感動や達成感を得たように、若いアスリートや、これからスポーツを始める障害者の方にも夢の舞台を体験してほしいと思っています。
自分がたくさんの方に支えてもらいここまで来られたこと、苦労した経験を経て、自分が思ってきた「恩を返す」には何が出来るのか考えていました。それが、現在運営しているユニバーサルトレーニングジムの設立です。
競技を始めた時、パラアスリートがジムや体育館を利用させてもらおうとすると、「床が汚れる」「傷が付く」「介助する人を連れてきて下さい」など、断られるばかりでトレーニングが思うように出来ませんでした。その環境下でロンドンパラリンピックに初めて出場するまでに6年かかりました。もし、トレーニング環境が有ったらもっと良いパフォーマンスが出せたかもしれません。だからこそ、若い選手たちには出来るだけ良い環境やアドバイスが出来る場所を提供したい、力になりたい。この気持ちが私の出来る「恩返し」へと繋がっていきます。
また、自分が障害者として生きてきたキャリアを使って、困っている方や、問題を抱えている方の役に立てることしたい。広く言うと、社会貢献がしたいと思うようになりました。
東京パラリンピック出場が叶わないと分かり、今後の自分がどう進んでいくかをゆっくり考えました。その答えが、「競技転向」と「起業」でした。
2017年に公務員から転職をしようと決めた時、ありがたいことに多くの企業から声を掛けていただきました。その中で最後に面接をしたダッソー・システムズに決めました。面接のときに、「あなたが金メダルを取るのに私達に何が出来るか教えてください」と言われました。忘れられません。ラグビーを辞めようと思った時、まだ身体は限界じゃない、まだやれると思いました。2年アメリカでトレーニングをしていた時に出会った「ハンドバイク」に興味がありました。この競技がパラリンピックの正式種目でした。次のパラリンピックはダッソー・システムズの本社があるパリ大会。新しい競技でパラパラリンピックに出場したい。なぜなら、応援してくれているダッソー・システムズに恩を返したい。そう思いました。
競技をしながら仕事を行っていくことは非常に大変ですが、毎日に多くの学びを感じています。社会貢献を決意した起業によって、これまで沢山いただいた恩を、これから恩送りとしてたくさんの方に届けていきたいと思っています。この一歩は、自分の可能性を広げ、自分を鼓舞するきっかけになりました。これはダッソー・システムズが掲げる「IFWE」、つまり「もし私たちがそうすれば、世界が変わるはず」という精神を体現しているんではないでしょうか。
ここまでご覧いただいた皆様、ありがとうございます。次回第6回目では、昨年に千葉市に設立した障害者専用のトレーニングジムについて、詳しく触れたいと思います。続編も楽しみにお待ちください。
<バックナンバー>
官野一彦のIFWE日記:第4回 シドニー以前と以後 挑戦と成長のサイクルを信じる
官野一彦のIFWE日記:第3回 五輪金メダル獲得に向けて・・・コミュニティと一緒に歩んだオリンピックロード