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官野一彦のIFWE日記:第3回 五輪金メダル獲得に向けて・・・コミュニティと一緒に歩んだオリンピックロード

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Avatar 官野一彦 (Kazuhiko Kan’no)
車いすラグビーの池透暢選手と五輪メダル獲得を記念して撮影

ダッソー・システムズが掲げる価値、「IF WE」とは

ダッソー・システムズは、「もし◯◯ができたならば、世の中をこのように変えられるのではー」という4つの価値(コア・バリュー)を掲げています。お客様の課題解決であれ社会に関わる取り組みであれ、これらの価値をもとに自らに問いかけ、チームを作り、アイデアを形にしていきます。この「IF WE日記」シリーズでは、パラアスリートとして車いす競技で活躍し、起業家としても活動する当社の社員、官野一彦(かんの・かずひこ)が、どのようにこの4つの価値を体現しているか、ブログ形式でお伝えしていきます。第3回目は、様々な分野に挑戦している官野一彦が、五輪メダル獲得までの過程やアメリカ生活で体験した障害者スポーツのトレーニング事情、そこから得た学びについて紹介します。

3位と4位の差 メダルで感じた東京五輪への意欲

車いすラグビーに出会ってから6年。その間、代表からの落選など紆余曲折がありましたが、2012年に念願のロンドン五輪出場を果たすことができました。初出場した五輪の結果は4位。メダルまであと一歩の順位で悔しかったですが、同時に世界ベスト4に入れた満足感はありました。しかし、メダルを獲れなかった4位に対する世間の評価は厳しいものでした。ロンドン五輪から帰国した成田空港では、メダルを取った選手達にメディアやファンの方が集まりましたが、世界4位の私たちのところにはカメラが向けられることはありませんでした。「世界4位なのに、メダルを獲得した3位との差はそんなに大きいのか」と悔しさを抱いたと同時に「次こそ頑張りを認めてもらいたい。次こそ死ぬ気で練習していることを認めてもらいたい」と心に決め、「4年後の2016年リオデジャネイロパラリンピックでメダルを獲る」という新しい目標を胸に、また五輪への道のスタートを切りました。

そこからの4年間は、日本代表のキャプテンを任せてもらった一方で、骨折などの大きな怪我を負ったりするなど様々な壁を乗り越え、リオデジャネイロパラリンピックでは3位に入賞し、念願の表彰台に立つことができました。表彰式でメダルをかけてもらったあの瞬間、「こんなに嬉しいことがあるんだ。生きていて良かった」と心から思いました。また、優勝したオーストラリアが国歌斉唱している姿を見て「かっこいいな、羨ましいな」と感じ、「2020年の東京パラリンピックで金メダルを獲って、たくさんの日本人と国家斉唱できたらどれだけ気持ちいいのだろう」と思い、地元での五輪出場を目指すという新しい目標が出来たのです。

ただその目標を叶えるには、大きな課題がありました。当時の私は千葉市役所の職員として通常勤務の傍らトレーニングをしていましたが、メダルを獲るという目標を叶えるために、睡眠時間を削ってトレーニングをしていました。金メダルを目指すにはより多くの練習時間が必要でしたが、これ以上の練習時間を生み出すことに限界を感じていました。

悩んだ末、大きく環境を変えて挑戦したいと思い、車いすラグビーが盛んなアメリカでトレーニングをして、自分のスキルを磨き、日本の金メダル獲得に貢献したいという気持ちが芽生えました。それを実現すべく、シーズン中にアメリカでのトレーニングを認めてくれる企業への転職活動を決意しました。そこからダッソー・システムズに転職した経緯はIF WE日記初回でご紹介したとおりです。アメリカでのトレーニングを支援してくれたことももちろんですが、パラリンピックや車いすラグビーの普及啓発の講演活動を認めてくれたことも、ダッソー・システムズへの入社の決め手の一つでした。

障害者が光を浴びてトレーニング 感じた日米の差

2017年10月に入社して間もなく、幸運にもアメリカのチームから海外遠征の招待をいただき、渡米しました。現地では、ホームステイ先を準備して、英語が全く話せない私の面倒を見てくださり、苦労無く過ごせたので、非常に感謝しています。1年目はミズーリ州セントルイス、2年目はフロリダ州タンパベイでプレーしました。トレーニング環境や障害者アスリートへのリスペクトなど、毎日様々な違いに刺激を受けながら楽しく過ごせました。特に日本では体育館やジムなどの屋内でしかトレーニングしていなかったのですが、アメリカでは広い公園やサイクリングロードなど、屋外でトレーニングを頻繁に行うことができました。自然の景色に囲まれ、風や太陽の光を浴びてトレーニングできる新しい世界に感動し、他の競技への挑戦を考えるようにもなりました。その後、日本代表チームの一員として2018年に行われた世界選手権で優勝し、世界1位を経験しましたが、2020年に開催予定だった東京パラリンピック代表には招集がかかりませんでした。当初より、車いすラグビーは2020年までと決めていたこともあり、年齢的にもアスリートとして残り少ない時間を新しい競技「パラサイクリング」に注ぎたいと感じ、競技転向を決意しました。予定より早く競技転向となりましたが、今は新型コロナウイルスの影響を受けつつも少しずつ前に進んでいます。

ダッソー・システムズが掲げる4つの価値(バリュー)の中に、「コミュニティの力が一つになれば、手を取り合ってゴールを目指すことができます」というバリューがあります。アメリカリーグでプレーしている時、英語を話せない私を受け入れてくれたホストファミリーや現地の日本人会の皆さんを始め、沢山の方々が私の夢を支えてくれました。競技転向以降も、ダッソー・システムズや地元の方などのお力添えで、夢に向かい挑戦できています。たくさんの方の支えや応援と共に、一つのチームとしてパリパラリンピックというゴールを目指して行ければと思います。

ここまでご覧いただいた皆様、ありがとうございます。次回第4回目では、車いすラグビーやパラサイクリングへの挑戦の振り返りや、モチベーションの維持方法、選手・起業家としての今後の展望などについて詳しく触れたいと思います。長くなりましたが、続編も楽しみにお待ちください。

<バックナンバー>

官野一彦のIFWE日記:第2回 海難事故、代表選考からの落選・・・困難を乗り越えてパラ五輪メダルで得たもの

官野一彦のIFWE日記:第1回 ”四足”のわらじでパラアスリートを支援 パラ五輪メダリスト・起業家 官野一彦

【略歴】

22歳で頚椎骨折の事故を転機に、車いす生活を始める。車いすラグビー日本代表選手として、2012年ロンドンパラリンピック、2016年リオデジャネイロパラリンピック、および世界選手権などでメダルを獲得。2017年10月、ダッソー・システムズ株式会社に入社。入社後、シーズン期間はアメリカリーグで競技に専念しながら、帰国期間中は各地で講演。2020年3月に車いすラグビーを引退し、パラサイクリングに競技転向。現在は講演やセミナーを通してダッソー・システムズの広報活動を行う傍ら、2020年4月に立ち上げたTAG CYCLE 株式会社の代表として障害者向けジムの設立やパラアスリート向けのコンサルティングを行う。

車いすラグビーとは

1966年のアトランタパラリンピックではデモンストレーション 競技として初登場し、2000年のシドニーパラリンピックからは 公式種目になりました。日本では1996年11月に正式に競技が 紹介され、1997年4月に連盟が設立されています。

パラサイクリングとは

パラサイクリングは、1984年のニューヨーク・アイレスベリーパラリンピックにてロードが正式競技となり、1996年のアトランタパラリンピックにてトラックも正式競技となりました。視覚障害と運動機能障害の選手が出場する種目で、障害のクラスに応じて使用する自転車が異なり、通常の2輪自転車、3輪の自転車、手でペダルをこぐハンドサイクル、視覚障害の2人乗りタンデムの4種類があります。

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