People ProfilesDecember 23, 2020

官野一彦のIFWE日記:第2回 海難事故、代表選考からの落選・・・困難を乗り越えてパラ五輪メダルで得たもの

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Avatar 官野一彦 (Kazuhiko Kan’no)
2012年ロンドンパラリンピックの聖火台前にて車いすバスケットボールの京谷 和幸選手と撮影

ダッソー・システムズが掲げる価値、「IF WE」とは

ダッソー・システムズは、「もし◯◯ができたならば、世の中をこのように変えられるのではー」という4つの価値(コア・バリュー)を掲げています。お客様の課題解決であれ社会に関わる取り組みであれ、これらの価値をもとに自らに問いかけ、チームを作り、アイデアを形にしていきます。この「IF WE日記」シリーズでは、パラアスリートとして車いす競技で活躍し、起業家としても活動する官野一彦(かんの・かずひこ)が、どのようにこの4つの価値を体現しているか、ブログ形式でお伝えしていきます。第2回目は、様々な分野に挑戦している官野が、自身が経験した障害者としての生活の難しさやパラリンピック出場までの経緯、そこから得た学びについて紹介します。

僕が車いすラグビーに出会ったのは、2006年のことでした。大きなきっかけとしては、2004年に当時熱中していたサーフィン中の事故で海底に頭を強打し頚椎を骨折し、そのまま車いすでの生活を余儀なくされたことから始まります。

入院生活を終えて、自宅に帰ることができたのは事故から11か月後のことでした。いざ帰ってみると、普段通りの生活を送ることが非常に難しいことに気づきました。例えば、「車に乗ってコンビニで好きなものを買う」ということ。普通であればそんな簡単な行為が、障害者としての生活になると、「腕の力で車に乗り、車いすを車に持ち上げる」、「手だけで運転しコンビニに着いたらさっきと逆の順番で降ろす」、「高いところの商品に手が届かない」、「指にマヒがあるので小銭をなかなか取れず、レジに渋滞を作ってしまう」などの作業やストレスが増え、身体面や精神面に大きくのしかかってきます。これによって、今まで5分で家に帰って来られた買い物が15分以上かかり、心身ともにクタクタになる。障害者として普通の生活を送ることが、こんなに大変でストレスのかかることだと痛感しました。

そのような生活を送ることおよそ1年経った2006年1月に、所用で車屋さんのイベント会場に行きました。すると、そこで突然肩を叩かれ、振り返ると車いすに乗った方が「車いすラグビー知っていますか?」と話しかけてきました。当時、車いすラグビーについては全く知らなかったのですが、話を進めるうちに、偶然にもその方と歳が近く、車で15分程度の距離に住んでいることが分かり、すぐに打ち解けて連絡先を交換し、近いうちに一緒に車いすラグビーの練習に行こうと約束しました。そこから家に帰り、インターネットで「車いすラグビー」と検索すると、私がサーフィンの事故で負傷した2004年に開催されたアテネオリンピック・パラリンピックで、車いすラグビー日本代表が初出場をしている事を知りました。その結果は全8チーム中8位と1勝も出来ていなかったのですが、これを見て「この競技を始めればもしかしたら日本代表として世界で戦う事が出来るかも」と感じ、それと同時に「もしそこで活躍出来れば、女の子にモテるかも・・・」と思いました。当時の私が競技を始めるきっかけは、そんな動機からでした。

余談ではありますが、当時、本当はラグビーより車いすバスケがやりたかった気持ちの方が強かったんです。しかし私は前述の通り、サーフィン中の事故で首の骨を折っていて、その際に頸椎を損傷したため、上肢にも障害が出ていることから握力が無く、車いすバスケの革のボールを扱う事が出来ません。一方、車いすラグビーは、各選手が障害の程度によって点数化され、チームの合計点数が一定の数値内になるようチーム編成されます。私の障害でプレーできる団体競技は車いすラグビーしかなかったため、「とりあえずラグビーをやってみよう」という感覚で臨みました。

障害からの”自由”を獲得した車いすラグビー

初めて練習会場で見た光景は今でも鮮明に覚えています。「車いす同士が思いっきりぶつかっている」、「障害者がそんな激しい運動をしていいのか」、「あんなにひっくり返って大丈夫なのか」、そんな驚いた印象が強かった一方で、プレイヤーたちが真剣な眼差しで前に進み、仲間の為にタックルして敵をブロックするのを目の当たりにし、「なんかかっけーな、この人達!」と感じ、その想いのままゲームに混ぜてもらいました。

初めて乗るラグビー用の競技車(ラグ車)はタイヤが「ハ」の字で旋回性と直進性もよく、普段乗っている車いすと全く機能が違うので、とにかく「楽しかった!」という印象が残っています。ただ、初心者の私に容赦なく突っ込んでくる選手達には「とにかく怖い」と感じていたのも事実ですが、まさしくこの感情が、私自身が障害者になってから抱いていた違和感の解放につながった瞬間でもあったのです。

恐怖が違和感の解放に繋がったと聞くと、矛盾を覚える方もいるかもしれません。しかし、例えばですが、家族も友達も誰でも、私が動くたび「大丈夫?」、「手伝う?」と手を差し出してくれます。私はそれを聞くたびに「自分でできるのにな」と、いつも歯がゆく感じていました。周りは親切に勇気を出して私に声を掛けてくださる方ばかりで、それについては感謝の気持ちしかないのですが、それと同時に「自分でできる事は自分でやりたい」と自立したい気持ちも強く持っていました。

当時、初めて参加したこのラグビーゲームでは、プレイヤーがコートに入って素早く動いて相手をかわして、ゴールに向かう。そんな場所に私は何よりも自由を感じ、「ここで自分をもっと表現していきたい」と強く思い、障害者としての競技生活をスタートさせることになりました。

練習中の官野さん(写真中央)

代表から離脱 苦手に向き合って乗り越えた課題

競技生活を始めるにあたり、まずは目標として、2012年のロンドンパラリンピックへの出場を定めました。練習の日々が続き、競技生活開始からわずか1年経った2007年に日本代表合宿に召集され、同じ年には代表として海外遠征メンバーに選ばれました。今振り返ると、この頃の私は1年で日本代表のメンバーに選ばれ、とんとん拍子で物事が進み、完全に調子に乗っていました。しかし、自分のおごりが仇となったのか、2010年に日本代表メンバーから外されてしまったのです。

その理由は明確でした。調子に乗っていたので謙虚さもなく、練習をしなかったので「下手」になっていたのです。若い選手にもどんどん抜かれ、完全にふてくされていた状態で、もう競技を辞めようかなと思っていました。しかしそこでふと我に返って立ち止まり、自問自答しました。「本気で競技と向かい合えているのか」、「ちゃんとアスリートとして生活できているか」、「自分の夢はロンドンに出る事じゃなかったのか」、と。その結果、「これじゃいけない!」と思い直し、自分自身を変えることを決意しました。やっぱり心の底では、一番最初に目標で決めたロンドンパラリンピックに出たかったんだと思います。

そこから、当時はたばこを吸っていたのですが、その時からきっぱりと辞め、減量を始め、リバウンドをしないように、1か月1キロずつ、8カ月で8キロの減量に成功しました。トレーニングもスピードや体力が無いことを自覚し、自分の一番苦手な走ることを中心に取り組みました。そんな努力の末、五輪前年の2011年に代表に復帰することができ、2012年ロンドンパラリンピックに内定し、現地でスターティングメンバーに選ばれました。

自分の苦手なことや嫌なことを認めることは難しいと今でも思います。ただ、それを認めた時に自分には何が足りないのか、何をしなければならないかを突き詰めて考えられたことが、その後の自分の人生を大きく変えたと感じています。「自分はもしかしたらダメな人間かもしれないけど、パラリンピックに行きたい」。自分自身の弱さを認めて、目標をはっきり見据えたことで夢を叶えることができたと、今振り返ってみてそう感じています。

ダッソー・システムズが掲げる4つの価値の中に、「現状への安住をやめることで、より良い世界への新たな展望が開ける」というバリューがあります。「これでいい」や「今がベスト」は安定でなく停滞です。欠点や改善点がある事は、決してネガティブではなく「伸びしろ」だと思います。何事にも進化を望み、進んでいくことでしか成長できないと思います。これは、アスリートとして欠かせないバリューですし、ダッソー・システムズが掲げる4つの価値とも重なる部分だと思います。

2回目も長くなりましたが、ここまでご覧いただいた皆様、ありがとうございます。次回第3回目では、五輪出場で感じたメダルへの思いやアメリカでの競技生活、パラサイクリング競技に転向した理由などについて詳しく触れたいと思います。長くなりましたが、続編も楽しみにお待ちください。

<バックナンバー>

官野一彦のIFWE日記:第1回 ”四足”のわらじでパラアスリートを支援 パラ五輪メダリスト・起業家 官野一彦

【略歴】

22歳で頚椎骨折の事故を転機に、車いす生活を始める。車いすラグビー日本代表選手として、2012年ロンドンパラリンピック4位、2016年リオデジャネイロパラリンピック銅メダル、2018年世界選手権優勝。2017年10月、ダッソー・システムズ株式会社に入社。入社後、シーズン期間はアメリカリーグで競技に専念しながら、帰国期間中は各地で講演。2020年3月に車いすラグビーを引退し、パラサイクリングに競技転向。現在は講演やセミナーを通してダッソー・システムズの広報活動を行う傍ら、2020年4月に立ち上げたTAG CYCLE 株式会社の代表として障害者向けジムの設立やパラアスリート向けのコンサルティングを行う。

車いすラグビーとは

1966年のアトランタパラリンピックではデモンストレーション 競技として初登場し、2000年のシドニーパラリンピックからは 公式種目になりました。日本では1996年11月に正式に競技が 紹介され、1997年4月に連盟が設立され、現在、 競技の国内普及と、 パラリンピックや世界選手権等の国際大会でのメダル獲得を目標に 活動を行っています。

パラサイクリングとは

パラサイクリングは、1984年のニューヨーク・アイレスベリーパラリンピックにてロードが正式競技となり、1996年のアトランタパラリンピックにてトラックも正式競技となりました。視覚障害と運動機能障害の選手が出場する種目で、障害のクラスに応じて使用する自転車が異なり、通常の2輪自転車、3輪の自転車、手でペダルをこぐハンドサイクル、視覚障害の2人乗りタンデムの4種類がある。

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